炭焼きの歴史

(元群馬県木炭協会長 須藤金次郎氏)

当会の会長を務められた故須藤金次郎氏が語られた炭の歴史を紹介します。


炭焼きの歴史について   ( 元群馬県木炭協会長 故 須藤金次郎氏より) 

  木炭や竹などを空気に触れさせずに炭化させれば、直接木材や竹を燃やしたときより発熱量は多くなります。この原理を利用したのが炭焼きです。
 昔は、土の中に穴を掘り、木材を入れて火を付け草やこもで被い、煙出しの土管等を立てて、さらにその上に土をかけて火を消し、堀り出して炭を作ったのです。このような炭の作り方を「伏せ焼き」と言いました。
 その後、石と粘土で窯を築き、その中で木材を蒸し焼きにし、燠(おき)を書き出し、炭をかけて火を消す、いわゆる「白炭」の焼き方をするようになりました。この方法は仏教の伝来とともに中国から伝えられたという説があります。

 私が子供の頃、昭和7年・8年当時は、全部白炭窯でした。私が農業の副業として炭焼きを始めたときも、3年くらい白炭を焼きました。
 しかし、その後、製炭者の研究により黒炭の焼き方が開発され、生産性の高い黒炭を焼くようになりました。白炭は1日2俵(30㎏)、黒炭は3俵(45㎏)焼けるのが普通でした。

 木炭は昔から、 家庭の主要な燃料でした。日本は昭和6年の満州事変後、現在の国連である国際連盟を脱退し、国際社会から経済封鎖を受けました。日中事変から大東亜戦争にかけて食料を始め、衣類、石油等すべて配給制となりました。特にガソリンは民間人にはほとんど手に入りません。バスやトラックなどの自動車は、すべて木炭で動かすようになり、農家の麦や稲の脱穀機もほとんど木炭を燃料としたエンジンで動かすようになりました。そのため木炭の用途は一気に増えて品不足となりました。 

国は方針として、国有林を毎年継続的に各地の木炭組合に払い下げて、木炭の増産を図りました。各市町村には県の委託を受けた木炭検査員が置かれ、木炭の増産と品質の向上にあたりました。その頃の炭の検査料が1俵5銭で、国、県の木炭協会で管理しました。

昭和20年に終戦となり、戦後の復興も着実に進み、物資も出回るようになりました。灯油、ガソリン、プロパンガス等も自由に手に入るようになり、石油ストーブ、ガスコンロ、各種の電気危惧も出回るようになりました。いわゆる「燃料革命」により、木炭の需用は急速に減少し、木炭生産者もほとんどいなくなりました。国有林の払下げ制度も、木炭の検査制度もなくなり、木炭の販売は自由にできるようになりました。

  昭和50年代に入って、元東京教育大学農学部教授の岸本貞吉先生が、木炭や木酢液の利用価値を認める数多くの研究発表を行いました。合わせて多くの学者の先生が、木炭や木酢液の動植物に及ぼす良い影響の研究発表を行いました。

 これらは、炭の燃料としての価値だけでなく、炭の特性を利用した炭の様々な価値を発見したものでした。国や県も林業復興の一環として、補助金を出すなど木炭生産復興に力を入れた結果、全国至る所に炭窯が築かれ、一気に木炭人気が高まりました。
 近年、石油や石炭といった化石燃料を大量に消費したことに伴う地球温暖化が進み、世界各地で気候変動やそれに伴う干ばつ等による被害が深刻になっています。木炭は再生可能なエネルギーであり、地球温暖化の抑制に貢献する資源です。

 私たち木炭生産者は、古来より多くの人が試行錯誤を重ね、苦労して開発した製炭技術を継承して、炭焼き産業に関わっています。燃料のみならず、人々の生活に多くの利用方法のある、木炭、竹炭、木(竹)酢液の生産にあたって、より良質の物を消費者に提供する心構えが必要だと考えています。それが、木炭産業発展に繋がり、森林林業発展の一助になるものと思います。